神風特別攻撃隊

日本の守護神様、どうか日本を蝕む売国奴議員と特ア3兄弟に天誅を!
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2010/05/27(木)
    神風特攻隊慰霊碑「カミカゼ・イースト」

皆さん、「平和ボケ」してるって言われるほど、「世界のどの国より平和な国 日本」

こんな平和な日本も、ほんの60数年前まで悲惨な戦争を経験しているのは、日本人誰しもがご存じですよね。


沖縄は戦時中、本土決戦で激しい戦火に見舞われました。
日本敗戦後は占領されアメリカ軍の統治下にありました。


1972年5月15日に日本へ返還されたのですが、沖縄県民は今でもアメリカ軍基地問題で苦しまれています。


大東亜戦争(太平洋戦争)末期、大日本帝国軍は各地の戦局で追い込まれていた。


そして、日本海軍がとった人類史上類を見ない戦闘機による敵艦隊への体当たり攻撃。


これこそが世界を、アメリカ軍を震撼させた『神風特別攻撃隊』でした…

*
特別攻撃隊の発動は昭和19年10月。

マッカーサー率いる米軍がレイテ湾口スルアン島に上陸し、連合艦隊司令部が残った艦隊を総結集して戦艦大和、武蔵を中心とする栗田艦隊のレイテ湾突入をはかる、捷1号作戦を下命した時である。


特別攻撃隊の発動は以前から海軍内でささやかれていたが、決定的なGOサインを出したのは当時第一航空艦隊司令長官に就いていた大西滝治郎中将。

  大西滝治郎中将


大西は19年7月にマリアナ沖海戦で大敗を喫し、サイパンを失陥した時から特攻以外に戦局を挽回する手はないと考えていた。

サイパンを奪われることは、B-29による日本本土爆撃が可能になることを意味したからだ。


捷1号作戦において大西中将は、敵機動部隊の制圧と味方水上部隊の援護を担っていたが、戦闘可能な航空機が40機にも満たない状況では作戦遂行は不可能と判断。


かねてから思案中であった航空機による体当たり作戦の発動を決意したのであった。その背景には、パイロットの質的低下、航空機不足という事実があった。


ミッドウェーでの大敗をきっかけにガダルカナル、ラバウルと消耗戦を強いられ、日本軍が誇るベテランパイロットは次々と戦死していったのである。


米軍は航空機に防弾装備を充実させパイロットの生還に全力を挙げたが、日本軍は防弾装備を軟弱な発想として否定。


「攻撃こそ最大の防御」としパラシュートすら積ませず、撃墜された場合は戦死も仕方ないと決めていた。


零戦を始めとする日本軍の航空機が、常に欧米列強より1ランク下のエンジンしか使えなかったのもあった。


そこに軍部のムチャな要求があったため、必然的に速力と航続距離を低下させる重い防弾装備は無視されたのであった。


また軍部は防弾に際して何の要求も示さなかった。
昭和19年末になるとパイロットの質的低下はひどく、頭数は揃っていても発着艦もできない有り様。


それどころか着艦事故で、毎日の様に数名の新米パイロットが死んでいった。


そういう中にあったから軍や隊員たちの中に、「それならいっそわが身もろとも敵艦に」と言った「特攻機運」が芽生えていたのも事実である。

  


加えて10月24~25日に行われた通常爆撃による戦果が微々たるものだったことも、海軍に「この戦局を打開するには特攻しかない」という考えを持たせるきっかけになった。


ちなみにマリアナ沖海戦(19年6月)においても日本軍が米艦船に命中させた爆弾はたったの2発だった。


しかもそのうちの1発は、体当たりによってである。


最初の特攻隊はフィリピンのマバラカット基地において編成された。
使用した機体は空戦専用に開発され、本来60kg以上の爆弾を装着するように出来ていない零式艦上戦闘機。


その零戦に250Kg爆弾を装着して出撃したのである。
任務は捷1号作戦を成功させるために米機動部隊の飛行甲板を一時的にでも使用不能におとしいれる事だった。

  


しかしこの時特攻戦法はまだ限定されていた。


空母千歳、瑞鶴、瑞鳳を軸とする小沢機動部隊がオトリとなって、ハルゼー大将率いる米第3艦隊を北に引きつけた。


小沢機動部隊は全滅しながらも道を開けたものの、「栗田艦隊謎の反転」によって捷1号作戦が失敗に終わると、その後は特攻だけが米軍への唯一残された対抗手段となってしまうのであった。


特攻攻撃隊は終戦の日、九州の鹿屋基地から最後の特攻隊が出撃するまで続けられ、延べ4000人近い若者(17~20代前半)を死地に追いやることとなった。

  


武士の末裔である誇り高き日本男児は、「愛する人、愛する子供のため」「愛する両親のため」「愛する国、日本のため」に一人一人が戦闘機で敵艦隊へ突入していきました…。


『明日は死ぬんだ…』


20歳も迎えるかどうかの若い特攻隊員達は、何を思い何を残し自ら特攻していったのか…


自らの命を惜しまない特攻作戦に、アメリカ艦隊の兵士は理解できず怯え、約半数以上が戦意喪失したそうです。


中には、逃げ場所のない戦艦上で特攻隊への恐怖で精神的におかしくなった米兵もいたそうです。

  


終戦間近になると、あらゆる戦局で若者が特攻隊として散って逝かれた…
両親のため、兄弟のため、愛する者のため、日本人としての誇りのため…


己の命をも惜しまぬ「神風特攻」という、アメリカ人には理解できない攻撃…


アメリカは戦争で勝っても、日本人を、日本という国を徹底的に潰せなかった。
また、天皇陛下を戦争犯罪人として死刑にはできなかった。


余りに日本人を追い詰めると、『日本人は命を惜しまない。また命を賭けて戦ってくる』


とアメリカ人の心理に刻まれていたからです。


日本の先人は「後世の日本人の為」、「アジア解放の為」に己の命を捨てて戦ってくれました。


現代に生きる皆さんは、こんな若者達が存在していたことをご存じでしょうか?


また、沖縄で、孤島で、外国でと激戦の末、特攻していった軍人達がいらっしゃったことをご存じでしょうか?


彼らが命を掛けて戦ったお陰で、敗戦国日本が戦勝国から植民地として分割・占領されなかったのです。


事実、当時多くの米軍将校が勇猛果敢な日本軍に敬意を払っていました。



今、日本が世界でも最も平和な国であり、世界で唯一自衛のため以外の武力行為を放棄しています。


本文の写真は「本当の日本の歴史」さんより引用させて頂きました。
blog「本当の日本の歴史」


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