北方領土の悲劇2  「スターリンの野望」

日本の守護神様、どうか日本を蝕む売国奴議員と特ア3兄弟に天誅を!
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2010/06/18(金)

樺太真岡に散った九人の乙女の碑
樺太真岡に散った九人の乙女の碑



「ソ連軍に暴行されるよりは死を選びます」


多くの誇り高き日本人女性が、辱めを受けるよりも自らの死を選ばれました…


無念の死を遂げられた方々のご冥福を祈ります…

*

<以下 引用~>

-----Japan On the Globe(203) 国際派日本人養成講座----------
_/_/
_/ 地球史探訪:終戦後の日ソ激戦
_/_/
_/ _/_/_/  北海道北部を我が物にしようというスターリン
_/ _/_/ の野望に樺太、千島の日本軍が立ちふさがった。
-----H13.08.19----35,299 Copies----302,006 Homepage View----




■6.さようなら、これが最後です。■

この時の悲話の一つとして伝えられているのが、真岡電話局に残って、通信維持の使命に殉じた9人の乙女たちである。

9人は引き揚げの指示を断って、ソ連軍の砲撃開始後一時間半に渡って、市街の惨状を報告し続けた。

今も詩吟「氷雪の門」で伝えられる最後の放送は次のようであった。

内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。
只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。

これが樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。
私たち9人は最後まで、この交換台を守りました。

そして間もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。

ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。
稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。

内地の皆さん、さようなら、さようなら、、、



9人の乙女は青酸カリを飲んで自決した。戦後建てられた稚内市の「乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳皇后は深く頭を垂れて、冥福を祈られ、次の御製、お歌を残された。

樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる

からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのるぬる





■7.真岡近郊での戦闘■

真岡に付近にいた配属部隊は、すでに16日に終戦に関する師団命令を受けて、真岡市から東方2キロの荒貝沢に移り、一部の兵の召集解除を始めていた所であった。

残っていた人数は3~4百名程度と推定される。

ソ連軍の急襲に、仲川大隊長は即座に17名の軍使一行を派遣したが、一行は荒貝沢の出口付近でソ連兵に制止せられ、指示に従って、武器を地上に置いた所を、突然自動小銃で乱射され、ほとんど全員が射殺された。

21日朝から、ソ連軍は荒貝沢に接近して、戦闘が始まった。
荒貝沢は真岡から樺太最大の町豊原への途上にある。

その豊原は、樺太南部の交通の要路であり、避難民でごった返していた。

豊原に向かうソ連兵を一刻でも長く引きつけておくために、日本軍将兵等は全滅覚悟で戦かった。

近くからの応援も得て、日本軍は23日2時頃まで抵抗を続けた。
その間、ソ連軍は航空機による豊原攻撃を行った。

豊原駅前広場には避難民数千人が集まっており、駅には大白旗を掲げ、救急所の天幕には赤十字が明示してあるにもかかわらず、爆弾5,6発、焼夷弾約20発の攻撃を受け、駅前の避難民に100人以上の死者が出た。




■8.スターリン、北海道侵攻を断念■

トルーマンからは北海道北部のソ連占領を認めないという返事が18日に届いたが、スターリンはすぐには応えず、ワシレフスキー元帥は、8月25日までに樺太全島と千島列島の北部諸島、9月1日までには千島列島の南部諸島と北海道北半分を占領するよう命令を出した。

占守島への強襲上陸が始まったのが18日早暁、真岡侵攻が20日早朝と、ソ連軍はトルーマンの回答を無視して、8月28日に予定されていた降伏文書正式調印(実際には9月2日に延期された)までに、北海道北部占領を既成事実化してしまう事を狙っていた。

22日には、ソ連軍が上陸を予定していた留萌沖で、樺太からの引き揚げ民を満載した日本船3隻を潜水艦で攻撃した。

うち2隻は雷撃により沈没。

1隻は海軍の特設砲艦で、雷撃により船尾を破壊されたが、浮上した潜水艦と砲撃を交わして、なんとか留萌港にたどり着いた。

この攻撃により民間人約1700名の死者が出た。

22日になって、ようやくスターリンはトルーマンあてに北海道占領を断念する旨の回答を送り、ワシレフスキー元帥は「連合国との間に紛争や誤解が生じるのを避けるために、北海道方面に一切の艦艇、飛行機を派遣することを絶対的に禁止する」という電報を打った。

22日は、千島列島北端の占守島の日本軍との間で降伏文書の調印が行われた翌日で、それ以南の諸島はほとんどが手つかずの状態であり、また樺太では真岡近郊での戦闘の最中であった。

日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては樺太と千島列島の占領を優先するためには、もはや北海道をあきらめざるをえない状況に追い込まれたのである。




■9.樺太、千島の占領完了■

24日早朝、アリモフ少将が戦車隊を従えて、豊原に到着し、日本軍の施設をすべて接収し、樺太庁の行政も停止させた。

これにて樺太の占領は完了した。

千島列島に関しては、24日以降、順次、日本軍将校を同船させて小型艦艇数隻からなる偵察部隊が南下し、各島で日本軍の降伏を受け入れながら占領を続けていった。

択捉、国後については、当初は「アメリカ軍がやってくるはずだから我々は手をつけずにかえるのだ」と言って、上陸しなかった。

この二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固有の領土であった。したがって、ヤルタ協定でソ連に「手渡さ
れる」ことになっていた千島列島にこの2島が入っておらず、日本本土の一部として、アメリカ軍の占領地域に入っていたと解釈されても不思議はなかった。

しかし、アメリカ軍が来ていないと知ると、ソ連軍は8月28日に択捉島に、9月1日に国後島に上陸した。

さらに千島列島に含まれず北海道根室半島の延長である歯舞諸島、色丹島にも、ソ連軍はそれぞれ9月1日、4日に占領した。

歯舞諸島占領が行われた9月4日は、降伏文書正式調印の二日後である。




■10.終戦後の戦死者と民間人犠牲者■

樺太および、千島の戦いでは、日本軍将兵約3千名、民間人約3700名の命が奪われた。

このほとんどが8月15日の終戦以降のソ連軍侵攻によるものである。

さらに捕虜にされた樺太約1万8千名、千島約5万名の日本軍将兵は本土に帰ると騙されて、シベリアなどに送られた。

スターリンは14日の時点では捕虜のソ連領移送は行わないと言っていたのだが、北海道占領を断念したとトルーマンに回答した21日の翌日、日本軍捕虜50万人のシベリア移送の極秘命令を出している。

ロシアの研究者の多くが、これは北海道占領断念の代償だったとしている。

もし、樺太、千島での日本軍の頑強な抵抗がなければ、北海道北部はソ連に占領されていた可能性がある。

そうであれば満州や樺太で起きた民間人虐殺が北海道でも繰り返されただろう。

そして、北海道北部は北朝鮮や東ドイツのように共産主義独裁政権が支配していたであろう。

樺太と千島の防衛に一命を捧げた日本軍将兵3700人と、その後のシベリア抑留に苦しんだ約7万の将兵に心からの追悼と感謝を意を捧げたい。

(文責:伊勢雅臣)

<引用ここまで>


真岡郵便局の9人の若い乙女達の最後のメッセージには涙がこぼれます。

終戦後も日本のために戦われた日本軍の方々、そして
ソ連軍の悪逆暴虐の限りで無くなった方達のご冥福を祈ります。


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