北方領土の悲劇1   「スターリンの野望」

日本の守護神様、どうか日本を蝕む売国奴議員と特ア3兄弟に天誅を!
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2010/06/17(木)

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日本人であれば、『北方領土問題』はご存じでしょう。


択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)の4島で、現在はロシア連邦が実効支配しています。


この4島は、北海道根室半島の沖合にある島々で1945年(昭和20 年)8月14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定した後、9月5日にかけて旧ソ連軍が北方領土に上陸し占領したのです。


旧ソ連の暴君「スターリン」は、日本がアメリカ軍との戦いにほぼ敗れ、疲弊しきった降伏寸前に宣戦布告!

卑怯にも程があるが、北海道を占領するために軍事侵攻してきた!


南樺太で8月11日、日ソ国境を侵犯し日本に侵攻したソ連軍は8月25日までに南樺太全土を占領した。

樺太占領軍の一部は、26日に樺太・大泊港を出航し、28日択捉島に上陸、9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領した。

歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領されている。


しかし、敗戦後の日本軍は物資や戦力が不足するなかでも激烈に抵抗。


多数の死傷者を出しながらも、ソ連軍の北海道侵攻を食い止めたのでした。

*

<以下 引用~>


-----Japan On the Globe(203) 国際派日本人養成講座----------
_/_/
_/ 地球史探訪:終戦後の日ソ激戦
_/_/
_/ _/_/_/  北海道北部を我が物にしようというスターリン
_/ _/_/ の野望に樺太、千島の日本軍が立ちふさがった。
-----H13.08.19----35,299 Copies----302,006 Homepage View----



■1.北海道北半分をソ連に■

1946(昭和20)年8月16日、終戦の日の翌日、スターリンは米大統領トルーマンに対して、釧路市と留萌市を結ぶ線以北の北海道の北半分に対して、ソ連側の占領を認めるよう要求を送った。

同年2月11日に、米英ソの指導者が結んだヤルタ協定では、樺太の南半分と千島列島がソ連に引き渡されるよう決められていたが、これをさらに北海道北半分にまで拡げよというのがスターリンの新たな要求だった。

樺太、千島列島、北海道北半分をソ連圏内に収めてしまえば、オホーツク海はソ連の内海となり、太平洋への出口も自由になる。

このスターリンの野望により、終戦後も激しい日ソ間の戦いが樺太と千島で展開されることになった。



■2.樺太国境での激戦■

終戦の日のわずか1週間前のモスクワ時間8月8日午後11時、ソ連は佐藤駐ソ大使に対して宣戦布告文を手渡し、その一時間後に攻撃を開始した。

翌46年4月まで有効であった日本との中立条約を一方的に破棄し、さらにソ連に和平仲介を依頼していた日本政府に対して、宣戦が布告されたのである。

樺太でも早速9日朝から、国境線を超えてソ連軍の散発的な砲撃と、小部隊の越境偵察が始まった。

樺太はもともと日露混住の地であったが、明治8(1875)年の樺太・千島交換条約により、樺太はすべてロシア領、千島列島はすべてが日本領となった。

明治38(1905)年の日露戦争の勝利の結果、北緯50度以南の南樺太が日本に割譲された。

南樺太の面積は四国の約2倍にあたり、終戦時の人口は季節労働者を含めて約40万人であった。

南樺太への本格的な侵攻は10日から始まった。

戦車95両、航空機100機を持つ第56狙撃軍団が、国境近くの小集落・半田を攻撃し始めた。

ここでは陸軍2個小隊と国境警察隊の約100名の兵力が防戦し、大半が戦死したが、ソ連軍主力を一昼夜にわたって食い止めて、ソ連軍には大きな衝撃を、日本全軍には異様な感激を与えた。

半田を落とした後、ソ連軍は国境から10キロほどの日本軍の主防御地帯への攻撃を開始したが、日本の歩兵第125連隊約3千人が森林や山岳を利用した永久陣地にこもって頑強な抵抗を示し、ソ連軍に足踏み状態を続けさせた。

その間に老幼婦女子を列車で南に避難させ、なおかつ主要な鉄橋を次々と爆破して、自らの全滅を賭してもソ連軍南下を防ごうとした。

15日正午、ポツダム宣言受諾に伴い、天皇の終戦に関する「玉音放送」が行われた。

国境沿いで戦闘中のため連絡のとれない第125連隊にも、18日にようやく戦闘停止の師団命令が伝達され、連隊は武器をソ連軍に引き渡した。

これまでの戦闘による被害は日本側死者568名、ソ連側死者約1千名、戦車数十両破壊と推定されている。

日本側は邦人保護のため、ソ連軍に現地で留まるよう要請したが、ソ連側は傲然と拒否して、南下を続けた。



■3.8月18日、ソ連軍、占守島強襲上陸■

日本のポツダム宣言受諾が確認された15日、アメリカは即座に全軍に戦闘停止命令を発したが、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は、樺太南西岸の真岡、および、千島列島北部の占領を命令した。

樺太ではまだ国境を越えたばかりであり、千島には足も踏み入れない状態では、停戦後の占領は不確実である。

さらに継戦の必要があった。

千島列島北端の占守(しむしゅ)島には、第91師団を中心に、約2万5千が防備に当たっていた。

カムチャッカ半島南端とはわずか10キロ余の海峡をはさみ、ソ連極東から太平洋への出口を扼する戦略拠点であった。

ソ連軍は上陸用舟艇16隻など、計54隻の艦船、総人員8千3百余名で、18日午前2時に占守島北端の国端岬に急襲上陸を図った。

まだ薄暗く霧深かったが、霧中射撃の訓練も十分に積んでいた海岸配備部隊は、即座に敵を発見し、野砲、速射砲などで猛烈かつ正確な砲火を浴びせた。

撃破された船艇は確認されただけで13隻以上に達し、3千人以上のソ連軍将兵が海中に投げ出され、死傷者が続出した。

しかしこの混乱の中をソ連軍将兵は泳いで上陸し、反撃を試みた。

この後、島北端の四峰山を巡って、激しい攻防が繰り返された。




■4.ソ連の悲しみの日■

堤第91師団長は、優勢な師団主力を占守島北部に集中して、一挙にソ連軍を水際に撃滅するという決心をし、準備を始めた。

しかし、それを知った方面軍参謀長から、18日16時までに戦闘行動停止の命令が来た。日本軍は軍使の長島大尉一行をソ連軍に送ったが、射撃されて死傷者続出し、長島大尉も単身敵中に潜入して行方が分からなくなった。

日本側が反撃行動を停止しても、ソ連軍は攻撃を続行してきた。

19日朝、再度の軍使が送られ、午後正式な停戦交渉が始まった。

何度かいざこざがあった後、21日に正式な降伏文書の調印が行われた。

一日で占守島全島を占領し、急いで千島列島を南下しようというソ連軍の計画は、日本軍の抵抗により大き
く狂ってしまった。

ソ連側の記録によると、日本軍の死傷者は1,018名、ソ連側は1,567名であった。

イズヴェスチャ紙は「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘よりはるかに損害は甚大であった。

8月19日はソ連の悲しみの日である」と述べてた。
激戦の行われた四峰山では、戦後、戦没者の記念碑が建てられた。




■5.真岡への侵攻■

北千島と共にワシレフスキー元帥が占領を命じた真岡は、樺太の南西岸にあり、3千トン級の船舶数隻を同時接岸できる港をもっているため、ソ連軍は真岡を北海道上陸作戦のための使用兵力を大陸から送り込むための中継基地として考えていた。

真岡はもともと人口2万の町であったが、16日夕から本土への引き揚げが開始され、19日夕刻までに6千人が出航していたが、乗船を待つ避難民がまだ1万5千~8千人いた。

真岡への攻撃は20日早朝に始まった。

数隻の大型軍艦が町中に艦砲射撃を行い、その後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる人々を背後から機関銃や自動小銃で掃射し、手榴弾を投げつけた。

引き揚げ船へ向かう女子供たちの上にも、容赦なく砲弾が降り注いだ。
厚生省資料ではこの時の民間人犠牲者は約千名としている。




以降次回へ続きます。


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