日本を心から愛していた2   by台湾

日本の守護神様、どうか日本を蝕む売国奴議員と特ア3兄弟に天誅を!
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2010/06/14(月)

台湾 国旗


【台湾の皆さま、東日本大震災への

多大なるご支援、心より感謝申し上げます。】



前回に引き続き、当時の日本領を経験された台湾人の方の出版物から、一部転載させて頂きます。


日本統治時代の素晴らしさを綴ってあります。
誇り高き日本兵、台湾の生徒を愛した先生、中国領になってからの悲惨な体験など、すごく参考になりました。


詳しくはこちらへ ⇒  桜の花出版:日本人はとても素敵だった

*
<以下、引用~>

『日本人はとても素敵だった』 楊 素秋著


第三章 素晴らしかった日本教育

台南師範学校附属国民小学校へ入学


父は、私を日本人ばかりの学校に入れてあげようとしたらしいのですが、これには母が反対しました。

それで、私は台南師範学校附属国民小学校という、台湾人が通う台湾で一番古い小学校に通うことになりました。


当時、初等教育には、公学校と小学校の二種類の学校がありました。

普段、台湾語を話している台湾人の子供達は、公学校でまず日本語の基礎から学びます。

一方、台湾に住んでいる日本人や、私のような台湾人でも日本語を常用している家庭の子供たちは、小学校に入って読み書き算盤など日本と同様の勉強をしていました(その後、確か昭和十六年、私が三年生の時に国民学校と改称されました。)

私が入った国民小学校の校章は桜の花でした。
だから、今でも桜の花と聞いて思い浮かべるのは日本。

そして桜イコール「大和魂」です。

大和魂は凛とした清らかな力を放っているものです。
そこには美が存在しています。

先生はほとんど皆日本人でした。
何しろ日本の教師を養成する師範学校の附属小学校ですから、教育が違いました。

校長先生は師範学校に属しているということで校長先生とは言わず、主事先生と呼ばれていました。

私達の学校には伊藤主事先生という方がおられました。

また、師範学校卒業前の学生数人が教育実習生として、教室の後ろに座ってじっと教学を見ていましたが、私たちは「教生の先生」と呼んで慕っていました。

遊ぶ時はその教生の先生と一緒でした。
私たち女の子は、お手玉、おはじき、鞠つき、鬼ごっこなどをしました。

男の子の遊びは、戦争ごっこやベーゴマ、めんこ、凧上げなどでした。
当時の台湾は日本よりずっと日本的だったのかもしれません。

一年生の時の受け持ちの宮本先生は、とても美人。
優しくて気立ての良い先生でした。

私は、入学したその日から先生のとりこになってしまいました。
先生が大好きで、先生を見ているだけで嬉しくなってしまうのです。

宮本先生は、優しくて、よく頭を撫でて褒めてくれました。

宮本先生の教え方はとても分かりやすく、肌で感じる教え方、生活の中にある教え方と言ったらいいのでしょうか。

割算を教えるのに、お饅頭を実際に割って教えてくれました。

私たちを学校の裏にあった牧場に連れて行ってくれたこともあります。
先生が、「これが飼葉といって牛の餌、それからこれは牛小屋で牛のお乳を搾る所。

それから、牛の搾ったお乳を牛乳といって瓶に詰めて、ラベルを貼って配達するんですよ」と説明をしてくれました。

先生が「皆さんは誰のおっぱいを飲んで大きくなりましたか」と聞くと、皆が「お母さんのおっぱい」と答えました。

私は威勢よく手を挙げて「はい、私はお父ちゃんのおっぱいで大きくなりました」と言い、皆に笑われたので、私は泣き出してしまいました。

その日の放課後、宮本先生は私の手をとって家まで一緒に来てくれ、父にことの成り行きを話してくれました。

父は「ワッハッハ」と笑っていました。

父にとっては、「父ちゃんのおっぱいで大きくなった」というのはとても嬉しい言葉だったのでしょう。

私を目の中に入れても痛くないほど可愛がってくれていましたから。

私はというと、先生が一緒に帰ってくれるだけで嬉しくて、泣いたことなんてケロッと忘れてしまっていました。

また、私が何か落とし物を拾って届けると、先生はまた私の手をとって家まで来てくれて、色々と私のことを褒めてくれました。父は目尻を下げて聞いていました。

私たちの学校の先生は教育に非常に熱心でした。
親とのコミュニケーションも緊密でしたから、信頼関係がありました。

先生と生徒の間は、まるで親子や兄弟、姉妹のような関係だったのです。






愛情に溢れた先生たち

日本人の先生方の素晴らしかった点として、自然に接して教えてくれたことが挙げられます。

その人の長所をちゃんと分かってくれ、まるで双葉を大きくするように育ててくれました。

例えば、ピアノが出来る人には、ピアノの演奏をさせたりするのです。

また、顔が綺麗でリズム感がある人には踊りを教えてあげたりといった具合です。

そういう所が一人一人の自信につながりました。

国民学校の時、私が接した先生の四人が四人とも、その子の長所を発見して伸ばしてあげようという先生でした。

師範学校は、教育のあり方を追求するという思想の下に設けられた学校ですから、私は本当に幸せだったと思っています。

ただ覚えろ、試験で百点をとるためにとにかく覚えるだけ覚えろ、という感じでは全くありませんでした。

ですから、学校に通うのは何よりも楽しいことでした。

昔の先生は本当の「先生」でした。
ただ、一足す一は二と教えるのではないのです。

一足す一はすなわち二ではない、一かもしれない、零かもしれない。
あるいは三になったり四になったりすることがある。そういう生きた教育でした。

学校では出来る子も出来ない子もいましたが、先生は親身になって分け隔てなく教えてくれていました。

出来ない人を馬鹿にするようなことはありません。
とにかく助けてあげるという気持ちが表れていました。

出来なかったら生徒同士もお互いに教え合いましたし、先生もそうなるように努力していました。

とにかく、自分の受け持ちの子は全部一様に大きくなっていけるように、というような信念というか目標というか、考えがあったらしいのです。

しかし、優しいだけではなく、厳しい面もありました。
日本の先生は、時々拳固を振るうこともあります。

女の子に対してはビンタを張ることもありました。
しかし、腹が立って感情に任せてするのではなく、その子が絶対に悪いことをしたという場合に限られていました。

よほどのことでなければ生徒を叩くことはありませんでした。

子供を正すために叩くというのは、生徒に対する愛情がなければ出来ないことです。

親が子を思うような心がなければ、あのように叩けるものではありません。

ですから、終われば先生はけろっとしていましたし、生徒も先生の愛情を感じて、自分が悪かったのだと反省をするのです。

叩かれた子の親も、叩いて頂いて有り難うございます、と心から思うのです。

今、過去を振り返って日本人の先生のことを思うと、愛でもって子供たちの行く先を案じるという気持ちがなかったら、あのような教え方は出来なかったに違いないと思うのです。

先生のお給料は少ないのです。
その自分のなけなしのお金の中から子供に何か食べさせてあげるということが、今の先生に出来るでしょうか。


逆に、今の先生は子供の両親からお金を取ろうと狙ってばかりいるのではないでしょうか。

現に台湾では、先生が自分の家で補習班(塾)を開いて親からお金を取っています。

そのようなアルバイトをすることは、台湾では本当はいけないことです。
でも、していない方がおかしいぐらい、先生はアルバイトに精を出しています。とても日本時代では考えられないことです。






第四章 優しい日本の兵隊さん

日本の兵隊さんは我々の誇り


日本の領土の一部だった台湾には、当然のことですが、日本軍が駐留していました。

台南には日本陸軍の第二歩兵連隊が駐留しており、そこから朝と晩にラッパが聞こえてきました。

同じラッパなのですが、朝の四時か五時頃には、そのラッパが「起きろよ起きろよ皆々起きろ、起きないと班長さんに叱られる」というように聞こえました。

夜は「兵隊さんは可哀想に、いつも叱られる」というふうに聞こえたものです。

時々、兵隊さんは町中で予行演習をしたのですが、それが私の家のすぐ近くだったので、窓からよく見えました。

ある日、いつものように演習の様子を窓越しに見ていると、家の前にある鳳凰木の下にいた兵隊さんが、立ち上がって銃を上げようとした拍子に銃を落としてしまいました。

それで上官から怒られひどく殴られました。もう鼻血が出るまで殴打されているのです。

私は、その様子を息を殺して覗いていました。

子供心にも軍律というのは厳しいということを知ってはいましたが、目の前でその厳しさを見たのは初めてでした。

しかし、銃を落とした兵隊さんは、ビンタを張られても気を付けしたまま敬礼をして「ありがとうございました!」と言うだけです。

その敬礼は崩れず、実に格好がいいのです。

厳しさが空気から伝わって来ました。

このように、日本兵でだらしのない兵隊は一人も見たことがありませんでした。

日本の兵隊さんは潔くて爽やかで、気持ちがいい人たちばかりでした。
私たちは、自分の国の兵隊さんはこんなに素晴らしいのだと誇りにしていました。

当時、兵隊さんはまさに皆の憧れの的だったのです。

年に何回かある記念日には、兵隊さんの閲兵式がありました。
閲兵式の行進の歩調は、イチニ、イチニと時間が刻み込まれたようにピッタリ揃っていてすごいの一言でした。

何を見るよりも胸がスカッとしたものです。沿道を埋め尽くした人々が、兵隊さんの行進をみんな固唾を飲んで見とれていました。


当時、次のような歌がありました。


 鉄砲担いだ兵隊さん 足並みそろえて歩いてる
 トットコトットコ歩いてる
 兵隊さんは勇ましい 兵隊さんは大好きだ!



このように、全ての国民の中には兵隊さんの素晴らしいイメージが刻み込まれていました。

そして、実際の兵隊さんたちもその通りの素晴らしい人たちでした。

軍服には少しの乱れもなく、気持ちがよくて潔く爽やかで、何より子供たちに優しかったのです。

銃剣を持った兵隊さんは行進の時にしか見ませんでした。

兵隊さんの銃は敵を撃つものであって自分の同胞を撃つものではないからです。

昔の武士が日本刀をやたらと振り回さなかったように、日本の兵隊さんたちにも昔のそういう武士の魂がありました。

軍人魂といって悪い者は征伐し、良い者は守るという精神があったのです。

兵隊さんたちは、自分が大日本帝国陸海軍の兵隊であることに対して自負と誇りを持っていたようです。

当然のことですが、兵隊さんたちは、お国のために、天皇陛下のためにという意識が強かったように思いました。


私たちは、戦地の兵隊さんのために慰問袋を作ったことがありました。
慰問袋には手作りのものを詰めて、手紙を書いて一緒に入れました。


その手紙には

「兵隊さんお元気ですか。戦地で戦って暑いでしょう。ありがとうございます。無事、武運長久をお祈りします」


と書きました。

また、千人針も縫いました。
千人針は普通の人は一つだけ縫うのですが、寅年の人は三つ縫うことが出来ました。

なぜなら寅は強いからです。
相手を取らんということでしょうか。







日常的だった兵隊さんとの触れ合い

私の父はお風呂が好きで風呂桶を疎開先に持っていったのですが、それを見た兵隊さんたちがお風呂に入りたくて「喜美子ちゃん、皆さんが入った後でいいからお風呂に入らせてもらえないか、お父さんに聞いてくれないか」と言いました。

私がそのことを父に告げると、「いいよ。その代わり薪と水は自分で汲んでねと言っておいて」と言うので、兵隊さんにそう伝えると、もう喜んで、水を汲んで薪をいっぱい持って来て、お風呂を焚いていました。

お風呂に入る順番は、やはり位の高い人からでした。

伍長から先に入って上等兵がしんがりです。
皆、お風呂に入って気持ちがいいなと言って喜んでいました。

兵隊さんたちが、食事に来たりお風呂に入りに来たりするうちに、私ともずいぶんと親しくなりました。

「喜美子ちゃん、ごめんくださーい。おじゃましまーす」と薪を持って、まるで自分の家の炊事場みたいに入って来て、大きなかまどで芋を煮て食べたりしていました。

兵隊さんたちは、大体お昼時の少し後と三時頃とお風呂に入る時に来ました。

戦争中でしたが、疎開先の田舎では毎日何の変哲もない昨日の続きで、母も、兵隊さんたちがそろそろ来るなという時間になると食事やおやつを一生懸命作っていました。

うちに来る兵隊さんたちの中に小さな人形を持っている人がいました。

ある時、その人が奥の部屋に行って静かにしていたので、私が心配して行ってみると、人形を手に持って人知れず涙を流していたのです。

その人形は簡単な作りで、二つの手と二つの足、まん丸いお顔にピエロみたいな赤い三角のとんがり帽を被っていました。

子供だった私は訳が分からなかったので、それちょうだいと言いました。

すると、「これはいけない。これは君にあげられないよ」と言われました。

私は、そうか、きっと大切な物なのだろうと思い、諦めたのですが、あれはきっと内地に残してきた赤ちゃんのことを考えていたのではないかと思います。






第五章 戦後、中国人がやって来た

呆れた中国兵



私の家にもありましたが、当時の電気屋には店先の机の上に電球がつくかどうかを調べるソケットがありました。

これは聞いた話ですが、ある電気屋で電球を買って帰った中国兵が、家に帰って電気をつけてもつかないと文句を言ってきたそうなのです。

電気屋の主人がつかないはずがないと言うと、本当についていないと言うので、「よし連れていって見せろ」と言って見に行きました。


見た途端に、おやじさんは怒るのを忘れてケラケラ笑い出したのだそうです。

なんとその中国兵は、机に穴を開けてそこに電球を突っ込んでいたのだそうです。

おやじさんは、「僕たちのは線がついていて、ちゃんと電力会社から電気を買っているんだ。これじゃあつくはずないじゃないか」と言ったのですが、中国兵には、気の毒なことに電気って何なのか分からないのです。

また、こんなこともありました。

中国人が荒物屋で蛇口を一つ買いました。

台湾の人間が蛇口をひねったら水が出て来るから、これは不思議だといって自分も一つ買ったのです。

それで蛇口をつけて蛇口をひねってみたのですが、水が出ません。
そこで、水が出ないと言って荒物屋のおやじさんを殴ったのです。

おやじさんもなぜ殴られたのか、てんで分からなかったという話です。

そして、その中国人が「お前は詐欺師か。お前の家の水は出るのに、俺の家の水は出ないじゃないか」と言うのだそうです。

水が出て来ないなどということは、常識で考えてもまずありません。

おやじさんが見に行ってみたら、壁に穴を開けて蛇口だけ付けて水を出そうとしていたというのです。


中国人の生活はそういうレベルだったのでしょう。


私たちには、こう言っては申し訳ないですが、野蛮人みたいでした。
一方、彼らは、台湾の生活が珍しくてしょうがなかったのです。






終戦後さっそく自転車を盗まれた


日本時代は、家の戸を閉めなくても泥棒に入られることはありませんでした。

戦争の始まる前、私が小さい時には、家の戸を閉め忘れて開け放しにしていても大丈夫だったものです。

遅く帰って来た父が、「おっ、戸が閉まってないな」とパタンと閉めるだけでした。

時は経ち、中学一年の時のことです。

その時、私の家には自転車が三台ありました。
ずっと家の鍵はかけないものだったので、終戦後も私はうっかり鍵をかけずにいました。

大体、戦時中の爆弾の爆風で戸がうまく合わなかったのです。
そして、試験前の勉強をしている時に、お店の机にうつ伏せになってそのまま寝てしまいました。

起きてみると、三台の中で一番いい日本製の富士覇王という自転車が盗まれていました。

その頃、富士覇王の自転車を買える人というのは本当に裕福な人たちでした。

盗まれてからは、ノーパンクというパンクしない自転車で通学しなければならなくなりました。

この自転車はその名の通りタイヤに空気が入っていないので、相当力を入れてこがないといけません。

でこぼこ道ではガタンゴトンガタンゴトンとなり、乗り心地があまり良くありませんでした。


<引用ここまで>



他にも面白いエピソードが書いてあります。


詳しくはこちらへ ⇒  桜の花出版:日本人はとても素敵だった


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