【ナヴオイ・オペラ・バレエ劇場】 日本人抑留者が造った劇場の奇跡

日本の守護神様、どうか日本を蝕む売国奴議員と特ア3兄弟に天誅を!
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2011/02/04(金)



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ウズベキスタンには大樹に囲まれた、「ナヴオイ・オペラ・バレエ劇場」という劇場がある。自然環境に恵まれたエリアにあり、シックで荘厳な建物の前の広場には噴水がある。

夏の夜になると若者たちがその周りに集まって、デート・スポットになっているのだそうだ。


ナヴオイ・オペラ・バレエ劇場には悲しい歴史があります…
第2次世界大戦末期、旧ソ連によりウズベキスタンに抑留された日本人は25,000人とも言われています。その日本人が強制労働で建設した建物がこの劇場なのです。


建物の外壁には、日本語と英語を含め四カ国語が刻まれている。その日本語の内容は、「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」と記されている…





*

ウズベキスタンは 91年に旧ソ連から独立した中央アジアの中心的存在で、面積は日本の約1.2倍、人口は2,200万人。タシケントはその首都で人口220万人、地下鉄二本が走りモスク、バザール、ビルと近代的建築物が混在する大都市だ。

ウズベキスタンには「ナヴオイ・オペラ・バレエ劇場」という劇場がある。今も愛されるこの劇場は、約500人の日本人抑留者が2年がかりで建設した劇場なのである。


ナヴオイ・オペラ・バレエ劇場


ウズベキスタンには第二次世界大戦末期~後に旧ソ連によって約2万5千人の日本人抑留者が移送され、水力発電所や運河、道路などのインフラ建設に従事させられました。

この建物はレンガ製ですが、日本人抑留者はレンガ製造から館内の装飾、彫刻まで行ったそうです。当時を知る現地人は、まじめにそして懸命に汗を流していた日本人抑留者たちの思い出を涙ながらに語る…。


時は流れ1966年4月26日、タシケントは直下型地震に直撃され旧市街の高密度住宅地において、約78000戸に及ぶ日干しレンガ造りの家屋が崩壊し30万人以上が家屋を失った。

しかし驚くことに、日本人抑留者が建設したこの劇場だけはビクともせず、現状を保っていたそうだ。ウズベキスタンでは、「日本人の建物は堅固だ」「日本人の建築技術は高い」という評価が定着した。そのためか親日感情が強い中央アジア諸国の中でもウズベキスタンの日本人への好感度は飛び抜けているようです。


1991年に旧ソ連から独立したウズベキスタンの大統領、カリモフ氏は大の親日家で知られた人物。ナヴオイ・オペラ・バレエ劇場の側面の壁に記念のプレートがはめ込まれましたが、カリモフ大統領はこの時「決して日本人捕虜とは書くな」と厳命。

このプレートには、ウズベク語、日本語、英語の3ヶ国語で
「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本人がこのナヴォイ劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」
と記されています。


ナヴオイ・オペラ・バレエ劇場




このナヴオイ・オペラ・バレエ劇場建設には、タシケント第4収容所の永田行夫元陸軍技術大尉以下450名が従事していたそうです。



以下、ウズベク漫遊記さんより引用 ⇒ ウズベク漫遊記

《タシケント第4収容所の記憶》

我々のツァーに加わったのは、かつてタシケント第4収容所に抑留されて国立ナヴォイ・オペラ&バレエ劇場の建設に携わった「永田隊」の永田行夫隊長ほか5人の現存者とその家族や関係者たちだった。学徒出陣で大陸に渡って奉天(現在の瀋陽)で現地編成された第28大隊(1000人)に属していたがソ連の捕虜となり、「ウラジオストック経由で帰国させる」と言われて1両の貨車に60人詰め込まれるという家畜状態で1945年9月17日に汽車に乗せられたものの、どうも向かっているのは西の方向で、40日かかって着いたところはタシケントだった。

永田隊240人(後に転入してきた者があって最終的に457人になった)が入れられたのはタシケント第4収容所。この人々がナヴォイ劇場の建設作業を担当させられた。毎日6時起床、7時朝食、8時~12時と13時~17時作業、18時夕食、自由時間の後21時消灯・就寝という日課の繰り返しで、休日は日曜日のほか正月元日、メーデーと11月7日革命記念日の連休だった。

食糧は1人1日の配給量が規則で決められていて、米または雑穀(粟、燕麦、小豆など)350グラム、黒パン350グラム、野菜(キャベツの漬物、砂糖大根、じゃがいも)800グラム、肉(骨付き羊、たまに駱駝や亀)50グラム、魚(塩漬け鰊)100グラム、油10グラム、砂糖 15グラム、塩10グラム、茶1グラム、煙草(マホルカという植物の茎)10グラムで、一見結構な量がありそうだが、穀物は籾付きだし、羊肉は骨ばかりだし駱駝肉は硬くて噛みきれない、じゃがいもは半分腐っていたりで、実際のカロリーは2000前後だと推定される。

日用品は、作れる物は何でも、建設現場から材料を持ち出して自分たちで作った。鋸刃からナイフ、剃刀、鋏などなかなか切れ味のいい刃物を作った。将棋、囲碁、麻雀、花札、さいころなどゲーム用品もすべて手作り。麻雀牌は木製で軽いので鉛を埋め込んで、模様は彫刻した。楽器も、太鼓、マンドリン、バラライカ、バイオリンなどを自作した。演芸大会のための男女和服、かつら、刀も作った。「すいぶんみなさん器用ですね」と言うと、永田は「他にすることがないので、エネルギーを注いだからだろう。建設現場で材料が何でも手に入ったという幸運もある。それに永田隊は航空関係が多く、機械や修理のエンジニアもたくさんいたし、元は大工だったという人もいた」と言った。何でもカネで買うことしか知らない今どきの若者なら、3日と生きていられないだろう。

そういう器用さと自棄のやんぱち的な情熱がナヴォイ劇場建設でも発揮されたのだろう。約2年間で屋外の造園工事を残して劇場は完成し、47年10月、第4収容所は閉鎖されて人員は他に移された。

「夕鶴」公演の日、永田らは劇場の入り口に立って「いやあ、55年も経ってここへ来て、しかも日本のオペラを観ることになるなんて……、想像もしなかったよ」「自分らの仕事が、たまたま後生に残るこういうものだったというのは幸運だった。もっともっと酷い仕事で苦しんだ人たちがたくさんいるのに」と言い合った。劇場の裏手の壁にはめ込まれた記念碑には、ウズベク語と日本語とロシア語で「日本国民」がこの建設に協力したことが明記されている。「日本人捕虜」という言葉を使わないところに、ウズベキスタンの人たちの気持ちが表れている。

引用ここまで




<ウィキペディアより>

シベリア抑留 ⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99

シベリア抑留
シベリア抑留(シベリアよくりゅう)とは、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)末期にソビエト連邦軍の満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)侵攻によって生じた日本人捕虜(民間人、当時日本国籍者であった朝鮮人などを含む)を、主にシベリアやモンゴルなどを中心にソビエト社会主義共和国連邦の各地に抑留し、強制労働に使役したことを指す。

厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働に従事させられたことにより、数多くの抑留者の命が失われた。このソ連の行いは、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背いた違法行為であった。ロシアのエリツィン大統領は1993年に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明した。


ソ連軍侵攻
第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した。8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスのヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州においては旅順の租借権の回復および大連港や東支鉄道・南満州鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた[1]。

日本がポツダム宣言を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たので、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入って[2]、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。


移 送
ソ連首相ヨシフ・スターリンは、8月23日に日本軍捕虜50万人のソ連移送と強制労働利用の命令を下した。占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された[3]この際多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある[4]。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[5]。

一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際には現在で言うモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方などのヨーロッパ-ロシア、などにも送り込まれていた。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。


収容所での生活
帝政ロシア時代より、シベリアは流刑の地として使用されており、政治犯などがシベリアへと送られていた。ソ連成立以降の「シベリア送り」は、国内でも反革命分子とされた人間に課されたもので、建国当初から行われていた。日本人捕虜も多くがシベリアの収容所に抑留され、過酷な環境下で強制労働に従事させられた。日本人のほか、200万人ともそれ以上とも言われるドイツ軍捕虜、枢軸国であったハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、イタリア、少数ながらスペイン、さらに大戦初期に併合されたバルト三国からも送り込まれていた。このほかソ連国内で反体制分子と疑われた人物や、共産党内の権力抗争に敗れた者なども含まれていた。独ソ戦の影響かドイツ軍捕虜が最も多いのが特徴。

シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した[6](犠牲者数に関しては後述)。
<ここまで>


祖国に帰れなかった彼らのために日本では、お墓の整備ための寄付や桜の寄贈を呼び掛け、ウズベキスタン政府の協力も受けて、今では美しい公園墓地となっています。現在、ウズベキスタンの日本人墓地と中央公園には、日本から寄贈された1900本の桜の木がウズベキスタン民に守られ毎年美しい花を咲かせているそうです。

私は行ったことがありません…。どうかウズベキスタンへ行かれる方は日本人墓地へぜひお立ち寄りになり、祖国に帰れなかった日本人のために祈りを捧げて頂けませんか…


よろしくお願いします。








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2013/09/07(土) 14:52 | | #[ 編集]
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